公害弁連第35回総会議案書
2006.3.18  大阪
【1】 基調報告
第3  公害裁判の前進と課題
6 水俣病のたたかいの前進と課題
1  ノーモア・ミナマタ国賠訴訟
 2005(平成17)年10月3日,不知火海沿岸に住む水俣病被害者たちが,国と熊本県,チッソを被告として損害賠償請求訴訟を熊本地裁に提起した。賠償請求額は,被害者ひとりあたり850万円である。
 この訴訟は,「ノーモア・ミナマタ国賠訴訟」と名付けられた。原告団(大石利生団長)は,提訴時50名であったが,その後急速に拡大をつづけ,2006(平成18)年2月23日現在876名にも達している。その後もさらに,千人規模の訴訟を目指して拡大をつづけている。そして,総勢20名の弁護士による弁護団(園田昭人団長)が精力的に,原告団を支えて活動している。これは,最高裁判決を無視して姿勢を改めない環境省に対する怒りの提訴であった。すなわち,2004(平成16)年10月15日最高裁第2小法廷判決(水俣病関西訴訟最高裁判決)は,国・熊本県の国賠責任を認め,国の水俣病認定基準を否定した。判決後,熊本県や鹿児島県で認定申請をする人たちが急増した。わずか1年余りで新たな認定申請者は3000名をこえた。最高裁判決をうけて,当然に認定基準が改められるものと,多くの被害者が期待したのである。
 ところが,環境省は,水俣病認定基準の見直しを頑なに拒みつづけている。こうしたなかで,被害者たちは,公健法による行政認定ではなく,裁判所による司法救済を求めて,裁判に立ち上がったのである。訴訟提起時に大石原告団長がのべた次の言葉が,この訴訟の性格を端的に示している。
「最高裁判決が確定しているのに,なぜ今裁判に立ち上がらなければならないのか。それは行政が正当な救済をしないからだ」
2  公式発見から半世紀
 1956(昭和31)年4月,熊本県水俣市月ノ浦に住む母親が6歳の少女を連れて,チッソ附属病院を訪れた。少女には,フラフラ歩き,言葉のもつれなどの神経症状があり,さらに狂騒状態を呈するようにまでなっていた。医師が調べると,地域住民に多数の患者が見出された。その年の5月1日,医師は,水俣保健所に対し,「原因不明の中枢神経疾患が多発している」との報告をあげた。この公式報告の日が,「水俣病公式発見」の日とされている。ことし(2006年),この水俣病公式発見から50年が経過することになる。前記ノーモア・ミナマタ国賠訴訟は,半世紀の歴史に終止符をうつ「最後のたたかい」(園田弁護団長)と位置づけられる。
3  いくつものターニングポイント
 水俣病は,わが国の産業と行政が,国民の人権を侵害しつづけ,ひたすら高度経済成長,国際社会における経済的優位性を確立するために歩んできた,凄惨な悲劇の歴史である。その歴史には,いくつものターニングポイントがある。もしその段階で国がなんらかの措置をとっていれば,そもそも被害の発生をくい止めることができたであろうポイントである。
 たとえば,1957(昭和32)に熊本県が食品衛生法による水俣湾内漁獲禁止・摂食禁止の知事告示を出そうとしたのを厚生省が潰した経過がそれである。同年9月11日,当時の厚生省は,「水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな証拠が認められない」として食品衛生法の適用を否定し,採取・摂食禁止の措置をとらせなかった。
 あるいは,その後のチッソの排水路変更の経過もそうである。1958(昭和33)年9月,チッソはアセトアルデヒド廃水の排水口を水俣湾の外に変更した。そのために,被害が湾の外に広がり,不知火海沿岸各地に被害者が発生した。卑劣な「人体実験」がおこなわれたのである。もう排水停止以外にないというこの事態を前に,通産省はふたたび排水口を湾内に戻すようにチッソに指示し,その後の被害発生を事実上容認してしまった。
 さらに,1959(昭和34)年11月には,厚生省食品衛生調査会によって原因物質がある種の有機水銀であることまで特定されたのに,通産省は,「一概に水俣病の原因を新日本窒素肥料株式会社水俣工場の排水に帰せしめることはできないと考えている」として,排水規制を拒否した。
4  被害者切り捨ての歴史
 水俣病の歴史は,被害者切り捨ての歴史でもある。
 1973(昭和48)年3月20日,熊本地裁は水俣病第1次訴訟判決を下した。判決、は,チッソの不法行為責任を認め,賠償金の支払いをチッソに命じた。この判決をうけて補償協定が結ばれ,行政に水俣病と認定されると治療費,継続的給付,一時金などの補償をうける制度が確立した。
 本来ならば,これで被害者救済がはかられるはずであった。ところが,この補償制度ができる以前は申請した大部分の被害者が行政認定を受けていたのに,そのご徐々に認定率が低下しはじめる。
 さらに,1977(昭和52)年7月,当時の環境庁は,水俣病認定基準を改悪し,感覚障害と運動失調などの症状の組み合わせを求めるなどして,行政認定を極端に狭き門にしてしまった。これ以降,認定制度は,大量の被害者を切り捨てるための制度になってしまう。その後,行政の水俣病認定基準が厳格に失しているとの指弾がたびたび裁判所の司法判断として示されてきたが,行政は頑なに認定基準に固執しつづけた。そして,被害者大量切り捨ての路線を押し進めた。
 1995(平成7)年12月に政府解決策が示され,当時の村山首相が「多年にわたり筆舌に尽くしがたい苦悩を強いられてこられた多くの方々の癒やしがたい心情を思うとき,誠に申し訳ないという気持ちでいっぱいであります」との謝罪談話を表明し,水俣病全国連傘下の全国各地の被害者が政府解決策を受け入れて,翌1996(平成8)年5月に訴訟上の和解解決がはかられたが,このときにも,行政の水俣病認定基準が変更されるにはいたらなかった。
5 「司法救済制度」による正当な補償を
 2004年10月の前記最高裁判決のあと,熊本・鹿児島両県の認定審査会では,審査委員の任期満了の時期を迎えた。しかし,委員のなかに「再任」に応じる者はなく,認定審査会は機能不全に陥った。かつて認定審査委員であったある医学者は,「環境省の認定基準に従って水俣病でないと棄却しても,裁判されたら証人として裁判所で証言せざるをえないが,裁判所では水俣病としており,どうしようもない」と漏らしている。行政の認定制度は,事実上崩壊してしまっているのである。
 前記ノーモア・ミナマタ国賠訴訟は,この行政の認定制度に,裁判所による「司法救済制度」を対置させ,後者によって早期全面的な被害者救済をめざすものである。すなわち,裁判所が,前記最高裁判決を基本にすえて,水俣病被害者であることの判断と補償内容を定め,多数の水俣病被害者について,早期につぎっぎと司法救済をはかる制度の確立を求めるものである。
 公害弁連は,「司法救済制度」による正当な補償とこれによる早期解決を求めるノーモア・ミナマタ国賠訴訟原告団・弁護団の要求を支持し,ともにたたかいをすすめていく。