【2】 各地裁判のたたかいの報告(基地騒音)
〔4〕 小松基地訴訟の歴史
小松基地爆音訴訟連絡会
代表 長田孝志
第1次・2次訴訟
私たちは、1975年(昭和50)9月16日に全国で初めて軍事基地である小松基地を相手に訴訟を起こしました。
この第1次訴訟は、「静かで平和な空の下で健康に暮らしたい」という人間として当然の権利を、12名の原告で要求してきました。小松での提起をきっかけに、翌年、厚木や横田など全国の基地においても訴訟が提起されるようになり、大きな流れが生まれました。
このような流れの中、小松基地ではF4EJファントム戦闘機が配備されるなど基地の機能強化が強行されてきましたが、自治体は反対の意思を貫き通せず、防衛施設庁との間で、騒音対策に関する基本協定「公害対策基本法9条に基づく昭和48年12月27日環境庁告示第154号航空機騒音に係る環境基準について」に従って、環境基準の達成を期することを基本に、昭和50年10月4日に協定が締結されました。以後、防衛庁はこのような協定を締結していません。
1982年(昭和57)、小松基地をベースに日米共同訓練が強行されるなか、「自衛隊・米軍違憲論」を掲げ、1983年(昭和58)、318名の原告を結成した第2次訴訟を提起し、先の第1次との併合審理で330名の原告団となりました。
約20年にも及ぶ長期の闘いも、1994年(平成6)12月26日に名古屋高裁において判決が確定し、一つの節目を迎えました。この判決では、飛行差止めについては棄却、80コンター以上に居住する原告に対しては、受忍限度を超えているとして損害賠償を認めました。
第3次・4次訴訟
第1次・2次の判決では健康被害の認定や飛行差止めが認められなかったことから、75コンター以上に居住する住民に呼びかけ、1995年(平成7)12月25日に1,653名の原告団を組織しての第3次訴訟を提起しました。
翌年5月には148名を第4次原告として追加し、合計で1,801名の大型原告団を組織することができました。この訴訟では、全国の基地訴訟の仲間とも情報を共有し、連携した闘いを進めることができました。
12年間に及ぶ闘いは、2007年(平成19)4月16日、名古屋高裁にて判決が確定しました。この判決では、「住民の爆音被害と国の施策の違法性を認める」として原告らに損害賠償を認め、国の責任を断罪しました。
また、10・4協定は30数年の時が過ぎても何ら守られていないと、行政に対して厳しい判決となりました。(詳細は以下の通り)
- ① 憲法9条に関する原告の訴えを退けた。
- ② 飛行差止は、自衛隊機については却下、米軍機については棄却とされた。
- ③ 75コンター以上に居住する原告に対して、受忍限度を超える被害を被っていると再度認定され、以下の通り損害賠償が認められた。
75W;3,000円、80W;6,000円、85W;9,000円、90W;12,000円
- ④ いずれも一人当たりの月額
- ⑤ 危険への接近による補償額の減額については相当でないと認定された。
- ⑥ 健康被害や将来の損害賠償などは認定されなかった。
第5次訴訟
小松基地も米軍再編の軍事基地として、日本海側における最前線基地化として機能強化が図られ、大きく変貌してきました。これに伴う墜落の危機や騒音拡大など、住民の不安がますます高まっていくなか、2007年(平成19)11月25日に開催された第3次・4次爆音訴訟総括集会において、新たに第5次訴訟を立ち上げることを確認し、早速、訴訟準備会を設置しました。
75コンター以上に居住する全ての住民に対してのパンフやチラシの配布、原告団への加入説明会の開催等を行い、広くPRしてまいりました。
約1年かけた取り組みにより周辺住民の理解が得られ、2,121名(635世帯)の過去最大の原告団を組織することができました。また、12月7日には、基地訴訟にかかわる7団体で組織する全国基地訴訟原告団連絡会議が発足し、情報の共有・連携・運動の支援などを連帯して行っていくことを確認いたしました。
私たちが取り組んでいる闘いは、田母神俊雄前航空幕僚長(元小松基地司令)の発言からも明らかなように、戦争へ突き進もうとする動きに歯止めをかける監視塔であり、平和を願う住民の結束の砦として、続けていかなければなりません。
この決意を新たに2008年(平成20)12月12日、第5次小松基地爆音訴訟原告団設立総会を開催し、12月24日、金沢地方裁判所に提訴いたしました。