【若手弁護士奮戦記】
現場を駆けめぐって実感した被害の拡がり

弁護士菅 一雄
(熊本・59期)

 熊本は集団訴訟が盛んで、私も、水俣、川辺川、有明、原爆などの弁護団に参加している。川辺川では住民訴訟の事務局長もしており、いずれご報告したいが、今回はノーモア・ミナマタ訴訟での活動をご紹介したい。

司法解決路線か、「政治解決」路線か

 ノーモア訴訟、昨2007年の最大の課題の一つが環境省・与党PTの「政治解決」路線とのたたかいだった。環境省の極めて不十分な「健康調査」結果を基に、与党PTが「新救済策」を出した。10月20日に「一時金150万円に医療費・年金つき」という内容で新聞の一面トップで報道された。私たちの裁判を切り崩して押さえこみ、一気に政治決着を図ろうという環境省・与党の狙いは明白だった。

「大量切り捨て」キャンペーン〜地域集会から臨時総会へ

 当初、原告の内外には与党PT案への期待、「必ず150万円もらえる」という幻想が広がった。原告団が切り崩されるおそれもあった。与党PT案には、一時金の額が司法水準に満たないとか、救済対象者が「公的診断」で一方的に決められるとか批判すべき点は多々あったが、原告団の幹部の話を聴くと、当面最も必要なのは「必ずもらえる幻想」の打破だと感じた。そこで、私は、与党PTの発言を自分なりに分析して、財源面から患者切り捨てが不可避であることを解明した。実は、与党PT案は、申請者の4割すら救済される保証のない、いわば「大量切り捨て」案だったのだ。弁護団は「大量切り捨て」キャンペーンを張ると決め、私は「大量切り捨て」解明チラシを作る役目も買って出た。分かりやすくしようと必死で頭をひねった。
 原告団は各地で地域集会を緊急に開き、弁護士が出向いて与党PT案の問題点を解明した。私も各地に足を運んだ。自作のチラシで説明したら、とても説得力があるようだった。「このチラシは分かりやすい」と言う原告もいて嬉しかった。「与党PT案が出て不安だったが、説明を聞いて裁判しかないと自信が持てた」という感想が多かった。想像以上に動揺は広がっていたのだ。原告からのサインを見逃さず大事にして良かった。わずか二週間後の11月4日には、原告団・不知火患者会は臨時総会に1200人を集め、与党PT案を拒否する確固たる意思を示し、与党PT案に大打撃を与えることができた。

現地の世論が勝負を決める〜ハンドマイクで街頭演説

 与党PT案に対して、他の患者会も態度表明を迫られていた。与党PT案に乗り気の患者会もあった。私は、現地の世論が与党PT案の成否、司法解決路線との勝負を決めると考えて、弁護団会議で現地での緊急宣伝行動を提案した。弁護団では「慌てる必要はないのでは」と積極的な賛同は得られなかったが、反対もなかったので、かまわず自分一人で宣伝して回ることにした。まずは与党PT寄りの患者会の勢力が強い、激戦区の鹿児島・出水地区をターゲットとした。
 水俣の患者会事務所でハンドマイクを借りようとしたら、最初は「本気ですか?」。宣伝の意義を説明したら、同行して道案内など手伝っていただけることになった。弁護団のタスキを掛けて演説開始。演説の内容では大量切り捨ての告発を押し出した。注目の話題で、反応は良かった。じっと立ち止まって聴く人も多く、拍手をもらうこともあった。たまたま聴いた原告さんが、「もう一回聴きたい」と次の演説地点まで追っかけてきたこともあった。同行した支援のかたも、「元気が出た」「演説がお上手ですね」などとおだててくれた。上手くいく自信はあったが、やっぱり人から注目されて褒められるのは快感である。難しい局面では、弁護士が明るく堂々とたたかっているところを見せること自体も大事だと思う。
 弁護団に「楽しかったですよ」と報告したら、弁護士ホヤホヤの60期を中心に続々街頭デビューが続いた。私も何度も現地で街頭宣伝を続けた。出水の「追っかけ」の原告さんは、次は宣伝カーの運転手をしてくれた。その日は「あんたの演説を聴くと元気が出る」と言ってくれた。本当に元気が出たらしく、その次に再会した地域集会では「おれたちもデモ行進でもやったらいいんじゃねえか」と発言していた。薬害肝炎の原告の姿を見た影響もある。原告団では、水俣中心部で街頭での署名集めをするなど、自分たちこそ立ち上がらなければならない、という気運が高まっている。当事者の訴えに勝るものはない。
 宣伝の効果か、他の患者会も与党の「新救済策」に対して注文を付けるなど、丸呑みはしていない。「政治解決」路線は一時頓挫している。
 私は、勝つためには、新人・若手だろうが積極的に発言・提案・行動すべきだし、先輩に対しても遠慮せずに質問や批判をすべきだと考えている。

果てしない被害の拡がり

 こういう活動を通じて、現地に行き、原告その他の患者や現地の人々と接触する機会が増えたため、はしなくも被害の拡がりを実感することとなった。
 私は、出水地区に台風を起こす決意で火を噴くような演説をして回ったのだが、そもそも出水地区は圧倒的に広く、手が届かないところがまだ大量に残っている。局地的には暴風雨でも全体ではそよ風に過ぎなかったかもしれない。車で行けども行けどもまだその先がある。回りきれずに日が暮れ、諦めて引き返すのである。その出水地区すら、被害地域のごく一部である。被害地域の広大さを体で感じた。
 行き先で迷い、道端の中年の男性に道を尋ねる。すると、その人の言葉がハッキリしない。これは水俣病の症状ではないか?
 演説に拍手してくれた農婦に話しかける。すると、「自分は耳が遠いのでよく聞こえない」と言う。(内容はともかく熱心に演説していたから拍手してくれたらしい。)ひどい難聴である。水俣病に違いない。
 畑仕事を横で眺めている少年がいた。んん? いや、体つきも表情も少年のようだが、髭が濃すぎる。側にいる老人は患者原告だ。「少年」は自分の息子で40過ぎだという。胎児性患者だろうか。ほとんど言葉を発しないらしい。その兄は海外出張して活躍しているそうだ。この兄弟の落差。老人は自分亡き後の息子の将来が心配だと言う。
 水俣からはるか離れた地域で患者がゴロゴロしている。ノーモア訴訟では、今度こそ水俣病の被害全体を救済するシステムを作らなければならない。この被害の拡がり全体をどうやって裁判官に伝えるのか。そこが私の最近の悩みである。
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