巻頭言
公害弁連とともに
代表委員 加藤満生
本年8月に東京大気汚染公害裁判が東京高等裁判所の和解によって全面勝利解決を勝ち取った。川崎の大気汚染公害裁判の弁護団として全国の大気裁判の仲間と手を携えて裁判闘争にかかわってきた一人として、東京裁判の全面勝利和解を迎えられたことに深い感銘を覚えた。
それは、わが国の四大公害裁判の一つに数えられた四日市大気汚染公害裁判が、昭和43年に提訴されてから実に40年におよぶわが国の一連の大気汚染公害裁判の闘いがようやくにして歴史の幕を閉じた瞬間であった。
公害列島と言われたわが国の公害を象徴するように、太平洋ベルト地帯に展開された重化学コンビナートと輸送の動脈として整備された道路が排出する汚染物質によるわが国の大気汚染公害が、首都東京での裁判闘争が挿尾を飾ったことはきわめて象徴的であった。
東京裁判は全国の大気汚染裁判を締めくくる大役を背負い、しかも大気汚染の主たる発生源が企業から道路へと推移してきたなかで、唯一首都を取り巻く道路公害に特化しての闘いであった。また自動車メーカーに対する大気汚染の責任を真正面から問い追求した東京の裁判は、弁護団にとっても積み重ねた大気汚染公害裁判の有史の上でまったく未体験のものであったといえる。
東京裁判は、自動車メーカーの車両製造と大気汚染被害との法的因果関係の構築という新たな法理論の展開と、首都という特殊な社会環境における大型裁判のための戦略などにおいて、それまで半世紀に積み重ねてきた裁判闘争の経験と実績がそのまま通用しない独自の困難を背負ったものであった。
多くの障害を克服し、東京大気汚染公害裁判を勝利を導く原動力となった弁護団の労苦に対し、全国大気汚染公害裁判弁護団連絡会の一員としても、改めてこの紙面を借りて深甚な敬意を表したい。
世界を震撼させたわが国の公害
「人類は核戦争の危機を回避しえてもいまや公害による絶滅の危機にさらされている。世界は速やかに英知を集めて公害に対処すべきである。」
1972年にストックホルムで開催された第1回国連人間環境会議のきっかけとなった国連決議の提案国スウェーデン政府の危機感あふれた呼びかけの一節である。
このスウェーデン政府の危機感は、当時田中角栄首相による所得倍増の掛け声の下に技術革新による経済成長の道をひた走り、太平洋ベルト地帯を中心に全国的に水質・大気・騒音、振動などあらゆる産業公害を撒き散らし、公害列島として世界の耳目を集めていたわが国の深刻な公害状況に発したものであった。
ストックホルム会議の席上日本政府を代表して出席した時の大石環境庁長官は、わが国の四大公害の状況を世界に報告して日本政府としての反省とともに、その公害の絶滅と被害救済に全力を挙げる決意を率直に世界に披瀝した。
止まらない公害と人類生存の危機
ストックホルム会議から四半世紀を経たわが国の公害状況は、幾多の法制度の創設と施策にかかわらず、また幾多の公害裁判の成果の積み重ねの努力にかかわらず今なお解決はおろか、改善されたとも到底言いがたい現状にあることを憂えざるを得ない。既存の未解決の公害問題に加えて、各種の新たな公害が姿、形を変えて各地に蔓延し或いは増幅しつつある。被害救済の面においても、半世紀を経た現在未だ数万ともいわれる水俣病の未認定被害者に対する認定の目途すらもたっていないことに象徴されるように、今なお各種多数の公害被害者があるべき救済も受けられないまま、病苦に呻吟し放置されている現実がある。
他方では、大気汚染物質の増加に起因する地球の温暖化現象が、いま世界各地に異常気象による大規模な災害をもたらし、数千数万ともいわれる規模の悲惨な人命の犠牲を招いている。人類の生存の基盤である宇宙船地球号の難破の危機回避が一刻を争う緊要事となり、今再び人類の英知の集約と実効ある施策が世界的な課題になっている。
公害弁連の使命と闘いの道のり
わが国の戦後の公害の歴史とともに生まれ歩んできた公害弁連が、四大公害裁判を嚆矢としてわが国の各種公害裁判を積み重ねるなかで、勝ち得てきた成果は限りなく、また輝かしいものがあったと自負する。
公害被害者の人権擁護の立場から、これほど真剣に公害問題と取り組んできた弁護士の裁判活動の歴史は世界にも例を知らない。
しかしながら四日市公害裁判がもたらした画期的な判決でも、その発生源企業が煙突からもくもくと吐き出す有害な煙を一刻たりとも止め得なかった現実に当面して切歯扼腕の思いをしたのは私だけではなかった。それは裁判を手段として法的手続きの枠組みのなかで公害と闘う上での限界であり、この課題は今もなお克服されていない。
昨年来毎日のようにマスコミを通じて、薬害肝炎の被害者が裁判上の和解に臨んで健康的にも、また日常生活の上でも深刻な被害状況にありながら、国の安易な和解案に対していささかの揺らぎも見せず、未提訴の被害者を含むすべての被害者の平等且つ完全な救済を主張して譲らない毅然とした姿を目にしてきた。
私は、限りない苦渋のなかでなお厳しさを貫く被害者の姿に接する都度、公害と闘う者としての姿勢の原点を改めて教えられている自分に気付かされ、ただただ頭が下がる思いがした。
私は、はしなくも代表委員の一員に加えられたときの席で、わが国に公害弁連を不要とする社会を希求し努力したいとの願望を自らの所信として披瀝したが、その願いが叶う日はいまだ遥かしの感がある。
残された日々を、公害被害者の苦しみをわが痛みとして受け止めることが出来る公害弁連の一員でいられる自分を信じ、ともに公害と闘いたいと念じている。