この36日間のたたかいで大きな確信が皆のものになったことは前進であったが,これにより地裁で全面勝利判決先行の青写真は見直しを余儀なくされることとなった。この時期は他方,前述したトヨタの対応変化とそれを受けた東京都の動きが進み,救済制度実現の展望が開けつつある時期であった。そこで2006年3月,「ここで頑張れば判決を取らずとも医療費救済制度が可能な情勢が生まれている」として,勝利判決を目指しつつも,並行して「早期全面解決を目指す方針」を確立した。こうして当時は水面下ではあったが,東京都,トヨタとの直接交渉が精力的に行われた。
そして高裁の結審日程が同年9月28日と決まっていたため,この日に裁判所に解決勧告を出させて,全面解決の動きを目に見える大きな流れにしていくことを目指した。私たちは高裁への働きかけを強め,東京高裁はついに結審当日「おそらく判決では解決し得ない種々の問題を含む」ことなどを理由に,「早期に抜本的,全面的な解決」を実現できるよう当事者に努力を求める勧告を行った。
これに前後して石原知事が被害者救済制度に前向きなコメントを発表し,これとあわせてこの解決勧告はマスコミで大きく報道され,全面解決に向けての世論の流れが確固たるものとして形成されていった。
7 たたかい取った医療費救済制度
解決勧告後はどのような制度内容となるかが焦点となった。「救済範囲は沿道に限定」とか「一部負担導入」などが取りざたされた。原告団としては大規模なターミナル宣伝や都内百カ所宣伝などに取り組んで,都民に成果を伝えるとともに,東京都に対しても要請行動や,交渉を繰り返し,特に救済範囲の限定は新たな差別を生み出すもので,そのようなものでは解決は不可能と迫った。
こうして11月28日に発表された東京都の提案は慢性気管支炎,肺気腫は除外されたものの,都内に居住する全てのぜん息患者の医療費を全額補償する点で評価できるものであった。これまた運動で中身をたたかい取ったということができるものであった。
原告団は続いて制度案に後ろ向きと見られた日産,三菱,マツダに対するたたかいに集中した。特に日産に対しては本社前の座り込み行動などでその姿勢を改めさせ,2007年1月上旬には,メーカー各社は都の提案を受諾し,財源負担に応じることを明らかにした。
他方国が財源負担を当初から拒絶し続けていたため,同年4月にいたって東京都は患者一部負担の可能性を匂わす態度に出た。そこで従来の膠着状態を打開するため,私たちは思い切って首相官邸に直訴することとした。勝利実行委員会の代表を務める清水鳩子さんが,かつて敗訴者負担制度問題に関して官邸と連絡をとったことがあるというだけの伝手を頼りに,清水さんに電話をしてもらったところ,何と早速4月19日に原告団の代表2名が首相補佐官と面会できることとなった。この「直訴」では原告の被害の実情を1時間近くにわたり訴えることができ,このことが5月30日の阿部首相の60億円拠出の決断を導いた大きな要因となった。
こうして国に続き首都高速会社も財源の拠出に応じることとなり,医療費救済制度の実現は確定的なものとなった。このように制度内容の問題,財源負担の問題など全ての課題を私たちは運動の力でたたかい取り,克服してきた。このことは私たちの大いなる誇りである。
8 全面解決へ最後の決戦
こうして,残された最大の課題はメーカーの謝罪と解決金支払いの問題となり,2007年1月以降,たたかいの中心はこの点に移った。制度の問題では積極的な役割を果たしていたトヨタが,この問題になるや態度を豹変させ,裁判所の提案があれば検討するとの極めて消極的な対応に終始するようになった(裁判所は膠着状態を打開するには,一定の時期に所見を示して和解案を提示すると述べていた)。
原告団は2月〜4月にかけて3回にわたる連日座り込みを行い,改めて自らの被害の賠償を求めることの正当性を訴え,メーカーの責任を追及した。3月16日には千人規模のトヨタ前あおぞら総行動を行った。これらの行動は繰り返しマスコミに報道され,大いに注目を集めたが,トヨタは依然として解決に向けての努力をしようとしなかった。
のみならずトヨタは5月16日以降,原告側との一切の交渉を拒否するという不誠実な態度をとるようになり,6月の初めには裁判所に対して,最終案としてメーカー全体で5億円という超低額回答を行った。これに対し原告団は6月5日から無期限の24時間トヨタ前座り込み行動に突入した。トヨタ本社の敷地内にテントを張り患者,支援者そして弁護団が連日泊まり込んだ。原告団は「渡辺社長出てこい」と要求し,患者が決死の覚悟でこうして座り込んでいる姿を見ても何も感じないのかと迫った。
無期限座り込みは裁判所が和解案を提示した6月22日まで18日間休むことなく続けられたが,ついにトヨタは最後まで交渉拒否の姿勢を変えることはなく,原告団の怒りをかった。
7月2日,原告団は裁判所の和解案を受諾する回答をなし,和解成立がほぼ確実となった。弁護団は和解成立に当たって,これまでの過去の大気汚染被害の発生に関してメーカーとしての一定のコメントと今後の公害対策についての決意を示してほしいとメーカーに要請した。これは従来の大気汚染裁判で発表している被告会社の声明と比較して,謝罪的要素を大幅に薄めたものであったが,被告メーカーは後続訴訟が起きた場合に不利に働くおそれがあるとの理由でこれも拒否してきた。
8月8日,高裁と地裁の法廷で和解は成立したが,結局被告メーカーの「謝罪」(乃至これに代わるコメント)は一切なかった。原告団としては,裁判は終了しても被告メーカーらの公害発生責任を追及するたたかいは,彼らが反省し謝罪するまで続くと考えている。
国や東京都との和解協議においては,相互に信頼関係を深めながら一致点を積み重ねていく中で合意を形成していくプロセスを経て和解にこぎつけることができた。しかし残念ながらメーカーとの間ではこのような信頼関係は全く欠如したままで裁判は終結した。今後全国的な救済制度の確立の問題,また5年後の見直しの課題の中で,自動車メーカーの公害発生責任は必ず大きなテーマになることは避けがたい。原告団も弁護団も,こういったこれからのたたかいにおいて,また場合によっては後続訴訟においてさえも,その係わりに関して一切道義的な制約を受けない形で終結したことは,むしろ積極的な意義があると言うことができるかもしれない。