東京大気汚染公害裁判の経過と概要

弁護団事務局長 原 希世巳

1  はじめに
  本稿は提訴準備を含めると14年に及ぶ東京大気のたたかいの軌跡を素描するものである。振り返ると,その時々に応じた適格な情勢の分析と方針提起,徹底した議論と,決めたことはやり抜く原告団,弁護団,支援者の固い団結が,今回の勝利和解を勝ち取った原動力となったことを改めて感じている。本稿が今後の議論の素材となれば幸いである。
2  提訴へ
  1993年9月7日,東京弁護士会館の会議室で第一回の東京大気汚染公害裁判研究会が開かれた。この時のメンバーは,西村隆雄,黒岩哲彦,樋渡俊一,斉藤園生,私などの弁護士,東京公害患者会,東京民医連などであった。研究会はその後医師団,住民運動連絡会,大気汚染測定連絡会,さらには消費者団体,労働組合(東京地評)等を巻き込んで,自動車メーカーを被告とすることの理論的な検討と運動面での課題などについて検討された。
  その中で接した東京の公害患者の話,「病院代がかかるから発作が起きても,これは死ぬかもしれないというくらいになるまで病院に行かない」,「入院代を節約するため,病院から抜け出して無理矢理退院する」,「親の形見の着物を売って入院代を捻出した」,「夫がいくら働いても病院代に消えてしまうので,働く気力をなくしてしまった」など愕然とするものばかりであった。
  「賠償金をもらっても医療費の数年分程度にしかならない,何とか被害者救済制度を復活してほしい」というのが彼らの願いであった。東京大気裁判はそのための裁判と位置づけられた。「救済制度の財源負担者として,自動車メーカーの責任を明確にすることは不可欠」「沿道のみの裁判では制度につながらない。広い東京の面的汚染と面的な被害を明らかにする必要がある」「制度を実現するには世論を動かすことが不可欠,1000名規模の大原告団を目指す」等という本裁判の骨格が固まっていった。
  1995年6月,東京公害患者会は「被害者自らが立ち上がらなければ,自分たちの命と健康,生活は守れない」と東京の公害患者に大気裁判を起こそうと呼びかけた。弁護団は分担して東京民医連の病院,診療所に連日足を運び原告団の募集・組織化に奔走した。
  こうして同年12月,東京大気汚染公害裁判原告団が結成され,1996年5月31日第一次提訴にこぎ着けた。
3  一次判決まで
(1) 法廷内外の状況
  当時は1995年7月に西淀川で初めて自動車排ガスの因果関係を認めて沿道の原告を救済する判決があったのみであった。1998年8月の川崎判決でも,救済は沿道に限られた。固定発生源を被告としない東京裁判では,自動車排ガスと面的汚染の因果関係を裁判所に認めさせることは,原告の救済のため絶対条件であった。弁護団はこの重い課題と必死で取り組んだ。
  また言うまでもなく自動車メーカーの公害発生責任については全く新しい論点への挑戦であった。当時はむしろ地球温暖化問題が社会的に注目され,自動車メーカーはこぞって「地球に優しい」ディーゼル車を大宣伝し,RV等を売りまくっていた。弁護団はメーカーが70年代からディーゼル排ガスの有害性を熟知しながら,国のPM規制が甘いのをよいことに,排ガス垂れ流しの欠陥ディーゼル車を大量販売していた事実を法廷の内外で明らかにした。欧米への輸出車と国内販売車のダブルスタンダードなどメーカーの悪性を物語る事実も一定浸透していった。
  1999年8月,東京都の「ディーゼルNO作戦」が始まり,2001年7月には東京都のディーゼル規制が開始された。また2000年1月に尼崎,同年11月の名古屋南部で,排ガス公害の差止判決がなされたことも大いに注目された。
  私たちは流れは変わりつつある,ようやく勝負になってきたのではないかと感じたものである。
  こうした中,2001年春,トヨタは非公式に和解解決の打診をしてきたことがある。このような当時の情勢と力関係を反映した動きであった。トヨタは一定の金銭を支払う意向を示したが,私たちは救済制度抜きの解決はあり得ないことを強く主張し,金額の問題には踏み込むことなく立ち消えになった。当時,救済制度はメーカーにとっても,裁判所にとってもまともに検討するような課題とはなり得なかったのである。
(2) 判決日行動とそれに向けた運動の飛躍
  私たちは2001年12月の結審を機に,各区で地域連絡会を作り勝利判決をテコに一気に全面解決を実現することを目指し,そのための体制作りに全力を挙げた。そして2002年1月に裁判勝利を目指す実行委員会が結成され,また多くの区で地域連絡会が作られ,支援の輪は飛躍的に広がった(現在では20区と多摩地域で連絡会等が作られ活動している)。
  2002年10月29日の判決日には1700名の支援者が結集したが,判決内容はメーカーの法的責任を否定し,12時間交通量4万台以上の超幹線道路の沿道50mのみに救済範囲を限定する,私たちの期待を打ち砕く不当なものであった。
  しかし1300名もの支援者が深夜まで各メーカー本社を包囲し,各社から「行政が新たな救済制度を制定する場合,社会的要請も踏まえて総合的に対応を判断」する旨の確認書を書かせることができた。不当判決を運動で乗り越えたこの確認書が,今日の救済制度実現という大成果の出発点として後に大きな力を発揮することとなった。
4  一次判決の克服を目指す法廷活動の前進
  弁護団としては,一次判決の到達点(幹線沿道で五たび国の責任が断罪,メーカーの1973年時点での予見可能性及び排ガス低減の社会的責務を認めた)を最大限活用して運動を進めるとともに,判決をどう克服するか詰めた議論がなされた。そこではメーカー責任,面的汚染のどこで勝負を賭けるかの絞り込みが足りなかったことが,裁判所の心をつかみきれなかった大きな要因であったとの総括がされた。
  そこで私たちは,1970年代後半〜80年代にメーカーが進めた中小型トラックのディーゼル化,直噴化の責任に的を絞り,メーカーはディーゼルの燃料経済性を大宣伝して大量販売したこと,メーカーによる当時のディーゼル化,直噴化がなければ都内のSPM排出量は現在の四分の一程度に低減されていたことなどを分厚く立証した。これに対しこの点についてのメーカー側の反証はなされなかった。
  また面的汚染については,欧米で数多くの成果が蓄積されている短期影響調査をもとに,病状の増悪への大気汚染の影響を系統的に立証した。
  これらについては別稿が予定されているので詳細は省くが,このような法廷における新たな到達点が全面解決に向けた運動の高揚の大きな条件となったことは間違いない。
5  救済制度実現を目指す運動の展開
(1) 国,東京都,そしてトヨタに迫るたたかい
  私たちは一次判決直後から早速国に対して救済制度を迫るたたかいを繰り広げた。少なくとも幹線沿道では排ガスとの因果関係は明らかであり,その範囲で早急に救済制度を検討すべきであるという私たちの主張は,マスコミ・世論や野党議員のみならず,一部の与党議員からも賛同を得た。当時緊急に10万2000筆の国会請願署名を提出し,4回の院内集会を行い,衆参の環境委員会で集中質疑が行われた。
  そして翌2003年3月からは東京都に対して医療費救済制度を要求するたたかいを展開した。石原知事は一次判決の敗訴部分に控訴せず,責任を認めて都議会で謝罪した。責任を認めるなら救済制度を作るのは当然と私たちは東京都に迫った。14万1000筆の石原知事宛の署名が寄せられ,毎週宣伝行動,五波にわたる署名提出要請行動などに取り組んだ。
  しかしこれらに対し国は「全国的疫学調査(そらプロジェクト)の結果を見て・・」の一辺倒であり,東京都は「救済は国がやるべきこと」と責任逃れに終始した。今振り返れば,この時のこの断固たるたたかいが都に制度を決断させ,国に財源負担を決断させる大きな力となったと考えられるが,当時としては壁の厚さを実感せざるを得ない時期が続いた。私たちはこれを打開する方策について議論を重ねたが,やはりカギは制度の財源負担者となるメーカー,とりわけ全体の動向を握るトヨタに決断を迫る他はないことが明らかだった。
  私たちは一次判決前に結成されたディーゼル対策共闘会議(東京土建,全商連,建交労と原告団の共闘組織)の運動を強め,2004年2月,全労連などが主催するトヨタ総行動に大型夜行バスで初めて参加した。原告団もこうして「トヨタの横暴を許すな」との国民的なたたかいの一翼に加わった(その後トヨタ総行動には毎年規模を広げて参加を続けている。また愛知でのシンポジウムの参加,名古屋での宣伝行動など愛労連とのつながりも深まっていった)。
  同年3月から比較的短期間の間に,トヨタのディーラー(東京トヨペット,東京トヨタ,トヨタカローラ東京)全店舗への要請行動をやりとげ,更に首都圏や全国にも広げていった。また2005年8月30日のトヨタ「レクサス」の一斉開店日にあわせた要請行動も行った。
(2) トヨタの対応変化と救済制度
  これらの行動と並行してトヨタ東京本社との交渉が継続的に続けられていたところ,2005年5月25日の交渉でトヨタは突如「ある団体に資金を拠出し,それが医療費救済や排ガス対策に使われるということであれば可能」と回答し,更に7月1日の交渉では,「国や都を巻き込んで解決できるのであれば,制度の財源負担も検討しうる」ことを明確に述べるに至った。この間のトヨタに迫るたたかいがこのようなトヨタの対応変化を引き出したのである。
  他方2005年の秋にいたり,川崎市では患者会や市民連のねばり強いたたかいにより,全地域・全年齢を対象にしたぜん息医療費救済制度が本決まりになっていった。私たちは東京都にトヨタの対応変化を伝え,川崎の動向も踏まえて,いよいよ東京でも救済制度を決断すべきと迫った。私たちは都への要請行動を繰り返し,地元の都議会議員への要請・懇談にも力を注いだ。こうして東京都はいよいよ救済制度を作って全面解決を真剣に考えざるを得ない状況に追い込まれた。
  2006年2月には担当者が川崎に出向いてレクチャーを受けるなどして検討を進めるようになった。
  東京都における医療費救済制度はここにおいてにわかに現実味を帯びるに至った。
6  裁判対策の前進
(1) 怒濤の36日間のたたかい
  私たちは上述したような法廷闘争の前進を踏まえて,2004年12月には「地裁の2時〜五次訴訟で全面勝利判決を取り,それをバネに全面解決を」との青写真を描き,「全面勝利判決を目指す100万人署名」の取組を開始していた。
  ところが2005年6月,地裁の裁判長が「幹線沿道50m以内の原告は本人尋問の必要あり」との見解を被告に示して,これを外れる原告の尋問申請を却下したことが発覚した。これは裁判所が,救済の範囲を沿道に限定した一次判決を無批判に踏襲しようとしていることを物語るものであった。原告団は沿道以外の患者の声は聞こうとしない裁判所に対して,9月6日から10月11日までの36日間,土日を除いて毎日裁判所前に座り込みと要請行動を行った。原告団・弁護団は9月20日に予定されていた本人尋問期日を退席し,裁判所に反省を促した。最終的には裁判所が上記見解を事実上撤回して,当方が申請する非沿道の原告 19名を採用させることができた。
  このたたかいで多くの原告が,裁判所前で涙ながらに自らの被害を語り,多くの人の胸を打った。原告の運動の輪は広がり,原告は被害を訴えることで裁判所をも動かして,いったん却下した非沿道原告を採用させるという成果を上げたことに大きな確信をつかんだ。この36日間のたたかいは,原告団のたたかいを質,量ともに大きく飛躍させる跳躍台となった。
(2) 早期全面解決方針と高裁「解決勧告」
  この36日間のたたかいで大きな確信が皆のものになったことは前進であったが,これにより地裁で全面勝利判決先行の青写真は見直しを余儀なくされることとなった。この時期は他方,前述したトヨタの対応変化とそれを受けた東京都の動きが進み,救済制度実現の展望が開けつつある時期であった。そこで2006年3月,「ここで頑張れば判決を取らずとも医療費救済制度が可能な情勢が生まれている」として,勝利判決を目指しつつも,並行して「早期全面解決を目指す方針」を確立した。こうして当時は水面下ではあったが,東京都,トヨタとの直接交渉が精力的に行われた。
  そして高裁の結審日程が同年9月28日と決まっていたため,この日に裁判所に解決勧告を出させて,全面解決の動きを目に見える大きな流れにしていくことを目指した。私たちは高裁への働きかけを強め,東京高裁はついに結審当日「おそらく判決では解決し得ない種々の問題を含む」ことなどを理由に,「早期に抜本的,全面的な解決」を実現できるよう当事者に努力を求める勧告を行った。
  これに前後して石原知事が被害者救済制度に前向きなコメントを発表し,これとあわせてこの解決勧告はマスコミで大きく報道され,全面解決に向けての世論の流れが確固たるものとして形成されていった。
7  たたかい取った医療費救済制度
  解決勧告後はどのような制度内容となるかが焦点となった。「救済範囲は沿道に限定」とか「一部負担導入」などが取りざたされた。原告団としては大規模なターミナル宣伝や都内百カ所宣伝などに取り組んで,都民に成果を伝えるとともに,東京都に対しても要請行動や,交渉を繰り返し,特に救済範囲の限定は新たな差別を生み出すもので,そのようなものでは解決は不可能と迫った。
  こうして11月28日に発表された東京都の提案は慢性気管支炎,肺気腫は除外されたものの,都内に居住する全てのぜん息患者の医療費を全額補償する点で評価できるものであった。これまた運動で中身をたたかい取ったということができるものであった。
  原告団は続いて制度案に後ろ向きと見られた日産,三菱,マツダに対するたたかいに集中した。特に日産に対しては本社前の座り込み行動などでその姿勢を改めさせ,2007年1月上旬には,メーカー各社は都の提案を受諾し,財源負担に応じることを明らかにした。
  他方国が財源負担を当初から拒絶し続けていたため,同年4月にいたって東京都は患者一部負担の可能性を匂わす態度に出た。そこで従来の膠着状態を打開するため,私たちは思い切って首相官邸に直訴することとした。勝利実行委員会の代表を務める清水鳩子さんが,かつて敗訴者負担制度問題に関して官邸と連絡をとったことがあるというだけの伝手を頼りに,清水さんに電話をしてもらったところ,何と早速4月19日に原告団の代表2名が首相補佐官と面会できることとなった。この「直訴」では原告の被害の実情を1時間近くにわたり訴えることができ,このことが5月30日の阿部首相の60億円拠出の決断を導いた大きな要因となった。
  こうして国に続き首都高速会社も財源の拠出に応じることとなり,医療費救済制度の実現は確定的なものとなった。このように制度内容の問題,財源負担の問題など全ての課題を私たちは運動の力でたたかい取り,克服してきた。このことは私たちの大いなる誇りである。
8  全面解決へ最後の決戦
  こうして,残された最大の課題はメーカーの謝罪と解決金支払いの問題となり,2007年1月以降,たたかいの中心はこの点に移った。制度の問題では積極的な役割を果たしていたトヨタが,この問題になるや態度を豹変させ,裁判所の提案があれば検討するとの極めて消極的な対応に終始するようになった(裁判所は膠着状態を打開するには,一定の時期に所見を示して和解案を提示すると述べていた)。
  原告団は2月〜4月にかけて3回にわたる連日座り込みを行い,改めて自らの被害の賠償を求めることの正当性を訴え,メーカーの責任を追及した。3月16日には千人規模のトヨタ前あおぞら総行動を行った。これらの行動は繰り返しマスコミに報道され,大いに注目を集めたが,トヨタは依然として解決に向けての努力をしようとしなかった。
  のみならずトヨタは5月16日以降,原告側との一切の交渉を拒否するという不誠実な態度をとるようになり,6月の初めには裁判所に対して,最終案としてメーカー全体で5億円という超低額回答を行った。これに対し原告団は6月5日から無期限の24時間トヨタ前座り込み行動に突入した。トヨタ本社の敷地内にテントを張り患者,支援者そして弁護団が連日泊まり込んだ。原告団は「渡辺社長出てこい」と要求し,患者が決死の覚悟でこうして座り込んでいる姿を見ても何も感じないのかと迫った。
  無期限座り込みは裁判所が和解案を提示した6月22日まで18日間休むことなく続けられたが,ついにトヨタは最後まで交渉拒否の姿勢を変えることはなく,原告団の怒りをかった。
 7月2日,原告団は裁判所の和解案を受諾する回答をなし,和解成立がほぼ確実となった。弁護団は和解成立に当たって,これまでの過去の大気汚染被害の発生に関してメーカーとしての一定のコメントと今後の公害対策についての決意を示してほしいとメーカーに要請した。これは従来の大気汚染裁判で発表している被告会社の声明と比較して,謝罪的要素を大幅に薄めたものであったが,被告メーカーは後続訴訟が起きた場合に不利に働くおそれがあるとの理由でこれも拒否してきた。
  8月8日,高裁と地裁の法廷で和解は成立したが,結局被告メーカーの「謝罪」(乃至これに代わるコメント)は一切なかった。原告団としては,裁判は終了しても被告メーカーらの公害発生責任を追及するたたかいは,彼らが反省し謝罪するまで続くと考えている。
  国や東京都との和解協議においては,相互に信頼関係を深めながら一致点を積み重ねていく中で合意を形成していくプロセスを経て和解にこぎつけることができた。しかし残念ながらメーカーとの間ではこのような信頼関係は全く欠如したままで裁判は終結した。今後全国的な救済制度の確立の問題,また5年後の見直しの課題の中で,自動車メーカーの公害発生責任は必ず大きなテーマになることは避けがたい。原告団も弁護団も,こういったこれからのたたかいにおいて,また場合によっては後続訴訟においてさえも,その係わりに関して一切道義的な制約を受けない形で終結したことは,むしろ積極的な意義があると言うことができるかもしれない。