巻頭言
行政の無謬論を撃て!

代表委員 鈴木堯博

水俣病対策における行政無謬論
 行政の責任が追及される公害環境訴訟では、行政は、その決定に誤謬はないとする行政無謬論を展開する。行政が一度決めたことは常に正しいとして絶対に変えない。その後の情勢が変化しても、官僚は過去の決定をそのまま引き継ぎ「行政の継続性」の論理を強行しようとする。
 それが典型的に示されているのは行政の水俣病対策である。
 昭和54年3月の熊本水俣病第2次訴訟判決以来、各地の裁判所で言い渡された水俣病訴訟判決は、いずれも水俣病認定制度の「昭和52年判断条件」は狭きに失するとしてこれを厳しく批判した。ところが、当時の環境庁の官僚は「行政の判断は司法の判断と異なる。」とうそぶいた。あくまでも行政の決めた判断条件は間違いないとして、判決を平然と無視し続けたのである。
 さらに、水俣病全国連が水俣病早期全面解決を求めて各地の裁判を闘った結果、平成2年に、福岡高裁をはじめとする各裁判所から和解勧告が出された。解決勧告の連弾といわれ、世論もこれを高く評価した。しかし、被告国のみは「国の行政のあり方の根幹にかかわる」として和解勧告を拒否し、和解のテーブルにはついに着かなかった。「行政のあり方の根幹」とは、「昭和52年判断条件」に誤りはないとする無謬論であった。
 そして、平成16年10月の水俣病最高裁判決は、国・熊本県の法的責任を認め、行政の水俣病認定基準よりも幅広く被害者を救済すべきだと判示した。ところが、行政は、最高裁判決に沿って認定基準を見直すべきだとする声を全く受けつけず、いまだに最高裁判決にすら従おうとしないでいる。それどころか、自民・公明の与党は、@低額一時金補償、Aチッソの分社化、B水俣病の地域指定解除を柱とする水俣病被害者救済特別措置法案を国会に上程して、被害者切り捨て、チッソ免罪と水俣病の幕引きをはかろうとしている。行政の判断に誤りはないとする無謬論にしがみつく行政の水俣病対策は混迷を深めるばかりである。
 残念ながら、三権分立という民主主義の根幹をもないがしろにしているのが、この国の行政の実態というべきだろうか。

高尾山の景観を台無しにする異様な光景
 行政が無謬論を押し通そうとするのは、とりわけ公共事業において顕著な傾向となっている。その最たるものは農水省の諫早湾干拓事業であるが、高尾山を2本のトンネルで串刺しにする国交省の圏央道建設事業もまさにその例に漏れない。
 高尾山は標高599メートルの低い山ながら、特異な自然的・歴史的環境に守られてきたため、豊かな自然が溢れている奇跡の山である。ブナ、イヌブナをはじめとして1300種という豊富な種の植物やムササビなど様々な動物が生息している。ミシュランの旅行ガイドブックによって、高尾山は、富士山、日光、京都、奈良などの有名観光地とともに最高の3つ星の評価を受けた。都心から交通の便がよい上、大都市近郊にこれほどの自然があるという点が選ばれた理由といわれる。高尾山に足を運ぶ人々は年間260万人にも達するという。
 ところが、高尾山を訪れる者は、異様な光景に驚愕する。登山道から山裾方面に目を向けると、巨大な鉄筋コンクリート建造物の圏央道ジャンクションによって美しい景観がすっかり台無しにされてしまっている。圏央道建設による高尾山の被害は景観破壊にとどまらない。絶滅危惧種のオオタカはすでに営巣放棄して姿を消した。圏央道トンネル工事により地下水脈が破壊され、高尾山の豊かな生態系に重大な変化が生じるおそれがある。圏央道を通過する自動車の排気ガスや騒音・振動により周辺住民に健康被害が発生する。
 高尾山は、圏央道工事によってひどく傷つけられ、泣いている。

高尾山圏央道建設事業における国交省の無謬論
 「高尾山天狗裁判」は、2000年に高尾山トンネル工事差止めの民事訴訟を提起して以来、その後の二つの事業認定取消しの行政訴訟も加えて、裁判のたたかいが9年も継続している。これまで言い渡された三つの判決は原告敗訴であったが、原告団・弁護団はこれに怯むことなく、国交省の圏央道建設事業の決定の誤りを徹底的に追及している。
 裁判で浮き彫りになったのは、環境破壊があろうと、巨額の税金の無駄使いがあろうと、最後まで道路を完成させるという国交省の無謬論に固執する態度であった。
 裁判の最大の争点は、圏央道建設事業の公益性・公共性の有無である。そのなかでも費用便益分析をめぐる問題がいま大きくクローズアップされている。
 国交省は、「費用便益分析マニュアル」に基づき、道路建設事業の「費用」と「便益」を計算し、その比率が最低でも1.0を上回らなければ、道路工事に着工しないという方針を持っている。そして、圏央道の八王子ジャンクションと愛川間の費用便益比は、2.9であるとして、1.0を大きく上回っていると主張している。しかし、その計算根拠については、ただ「費用便益分析マニュアル」に基づく計算方法と計算結果を示すだけで、その具体的な内容は明らかにしない。
 原告側は、限られたデータにより科学者の協力のもとに試算したところ、費用便益比は、0.36という、1.0を下回る数値が出た。そこで、国交省の費用便益分析ないし交通需要予測の合理性の有無を検証するために、費用便益比2.9という数字の根拠について何度も求釈明を行い、この点に関する攻防戦を繰り返している。現在までのところ、国交省は回答をはぐらかし、そのデーターの開示を拒否している。具体的根拠を示すことなく費用便益分析の数字の結論だけを強引に押しつけようとしている。第三者による検証ができないような国交省の費用便益分析など到底合理性がない。国交省は圏央道建設事業の決定に誤りはないとする無謬論を振りかざすだけで、説明責任を全く果たしていない。そこに官僚体制の退廃がみられる。
 高尾山の圏央道ジャンクションの異様な建造物は、後世の人々から国交省の犯罪的な無謬論の「記念碑」として批判にさらされるであろう。

無謬論を打破するために
 道路建設事業などの公共事業において行政無謬論を許してきたのは、政治と司法の責任である。
 長期自民党政権のもとで官僚政治が行われてきたため、政治は官僚をコントロールする力がない。公共事業を国民の側から第三者的に議論し、チェックする場もなかった。行政が公共事業の計画策定権を独占しているため、公共事業は専ら行政の裁量に任されてきた。公共事業には族議員や業界が蟻のごとく群がり、公共事業が政官業の癒着の舞台となった。公共事業を完成させるのは官僚の責任であるとして、行政無謬論が大手を振って罷り通ってきた。行政は、環境の価値を低いものと考えているため、巨額の税金が有害な公共事業に投入され、環境破壊と著しい財政負担とがもたらされた。
 しかし、政治がきちんと公共事業の計画策定に関与できるような仕組みに変えていけば、無駄で有害な公共事業の計画中止の可能性はある。そのためには政権交代が必要である。
 政治の責任のみならず、司法の責任も重大である。本来なら司法が行政に対するチェック機能を十分に発揮して、行政の誤りを正さなければならない。しかし、高尾山圏央道の判決が3つとも原告敗訴となったことからもいえるように、現実の司法は行政チェック機能を十分に果たしていない。司法改革が進んできたにもかかわらず、司法は依然として行政裁量を広範に認め、行政の主張を鵜呑みにするため、行政訴訟の分野では住民敗訴率が異常に高いという事態が変わっていない。とくに公共事業を止めることに対して司法は極端に憶病になっている。
 行政の無謬論を打破するためには、科学者の協力のもとで徹底的に行政の誤りを抉りだし、その事実を行政と裁判所に鋭く突きつけていく必要がある。そしてこれを世論に訴え、国会にも働きかけていかなければならない。
 「高尾山天狗裁判」は、国交省の無謬論を打ち破るために、法廷内外のたたかいに全力を挙げて取り組んでいる。
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