鞆の浦世界遺産訴訟
仮の差止め申立て却下決定について
弁護士 越智敏裕(東京弁護士会)
鞆の浦世界遺産訴訟の提訴については、公害弁連ニュースNo.156においてご報告したところであるが、平成20年2月29日に広島地裁において、結論は却下ではあるものの、その内容が画期的ともいえる決定が出された。
鞆の浦世界遺産訴訟とは、高い歴史的価値を持ち、地元住民にとって生活の基盤でありまちづくりの基点ともいえる港湾の一部を埋め立てて架橋するという公共事業を巡る紛争について、地元住民である原告らが、広島県を被告として、公有水面埋立法(以下「公水法」という)2条に基づく鞆の浦の埋立免許の差止めを求めて提起した行政訴訟である。この本訴について、行政事件訴訟法37条の5に基づく仮の差止めの申立てをし、これを却下したのが本決定である。決定文は
http://www.tomo-saiban.net/からダウンロードすることができる。
本決定の意義は次の3つである。
第一に、原告適格を有する慣習排水権者の範囲を広く認めた。被告は自らの敷地から直接かつ排他的に海面に排水している住民だけを排水権者として扱うべきであると主張していた。原告らは、そのような住民が設置している排水管にさらに排水管を接続して排水してきた住民や雨水を海面に直接排水している地区会館の共有者なども、排水できなくなれば同様に支障を来たすことから、広く慣習排水権者として認めるべきであると主張していた。本決定は原告らの主張を認め、これらの者も慣習排水権者に該当すると判断し、原告適格があるとしたのである。第二に、鞆の浦に居住しその良好な景観を享受してきた原告らの原告適格については、公水法の環境配慮規定、利害関係人の意見書提出規定、関係法令としての瀬戸内法の配慮規定及び同法上の国の基本計画・県計画の環境配慮規定を考慮し、一定の景観利益が法的保護に値する場合があることを認めた国立マンション事件最高裁判決を踏まえて、原告らが歴史的街並みゾーンと主張する範囲内の居住者が法的保護に値する景観利益を有しているとし、原告適格を有するとしたのである。これは、民事訴訟の不法行為に関する判決である同最高裁判決に依拠し、行政訴訟の原告適格を基礎付ける利益として景観利益を承認した初めての司法判断であり、同最高裁判決の意義を真摯に受け止めて原告適格を柔軟に解し、景観訴訟の新しい可能性を開く画期的な判断といえる。なお、本決定が認めた良好な景観の範囲は590ヘクタール(日比谷公園約37個分)に及ぶ。
第三に、本決定は、原告らは、埋立免許がなされた場合、直ちに差止訴訟を取消訴訟に変更し、それと同時に執行停止の申立てをし、埋立てが着工される前に執行停止の申立てに対する許否の決定を受けることが十分可能であり、処分がされた後、差止訴訟を取消訴訟に変更し、同時に執行停止を申し立てることが可能であるから、現時点では差止めを認める緊急の必要性がないという理由で申立てを却下した。仮の差止めについては「償うことのできない損害を避けるため緊急の必要があるとき」という要件が課されており、これについては上記のように考えるのが下級審レベルでは一般的となっている。その是非はおくとしても、本決定は実効的な司法救済が当該事案において現実に得られるかどうかを実際的に検討している点に特徴がある。すなわち、「本件の本案である差止訴訟は、既に当裁判所に係属し、弁論期日が重ねられ、景観利益に関する当事者の主張及び書証による立証はほぼ尽くされていることを併せ考慮すると、景観利益を法律上の利益とする申立人らは、本件埋立免許がなされた場合、直ちに差止訴訟を取消訴訟に変更し、それと同時に執行停止の申立てをし、本件埋立てが着工される前に執行停止の申立てに対する許否の決定を受けることが十分可能である」と具体的な審理状況を踏まえて上記判断をしたのである。さらに、本決定は「本件埋立てが着工されれば、焚場の埋立てなどが行われ、直ちに鞆の浦及びその周辺の景観が害され、しかも、いったん害された景観を原状に回復することは著しく困難である」ことを認定しており、ただその損害は取消訴訟を提起して執行停止を得れば回避できるとして、本件埋立てによる景観破壊の切迫性と不可逆性を認めている。
なお、当初、被告側は、埋立免許について現在審理中であるため、本案についての主張立証をしないという訴訟戦略をとったが、仮の差止めの申立てにより戦略の変更を迫られ、積極的な主張立証をするようになり、本案訴訟の審理も進むという成果が得られた。
本件において本案判決を待っていては、既成事実の形成が進行し、もはや鞆の浦を守ることはできない。すなわち鞆の浦の保全の可否は、ただ執行停止の許否にかかっている。もし本件において上記のような内容で執行停止決定が出され、これが上級審でも維持されるとすれば、わが国は日光太郎杉判決以来ともいえる歴史的な判決を環境判例の一つに付け加えることができるであろう。川辺川利水訴訟控訴審判決、永源寺第二ダム訴訟控訴審判決、栗東新駅起債差止訴訟第一審・控訴審判決(いずれも原告側勝訴で確定)など、聖域であった公共事業に対する積極的な司法コントロールの時代の幕を、良識ある裁判官たちが開けようとしている。