イタイイタイ病提訴40周年記念の集い ―神岡鉱業社長参加の歴史的意義―
イタイイタイ病弁護団長
弁護士 近藤忠孝
昨年12月6日、イタイイタイ病提訴及び公害病認定(第一号)40周年記念の集いが富山市で開かれ、被害者の家族や支援者・全国の公害団体等、約130人が出席した。
近藤イ病弁護団長と渋江神岡鉱業(三井金属鉱業の100%子会社)社長の「講演」、青島イ病弁護団事務局長の「今後の運動についての問題提起」が行われ、鉱山側参加が注目されて「加害者・神岡鉱業社長が講演」「環境安全最優先を強調・神岡鉱業社長イ病提訴40周年で講演」等と大きく報道された。前例がないことであり、新たな歴史の進展が注目されたからである。
「40年の歴史はただ流れてはない。不倶戴天の敵が、無公害産業実現の共同事業者に変わった発展がある」ことを実感した催しであり、運動の単なる通過点ではなく、地球から公害を根絶する巨大な運動の新たな第一歩であった。
1 この集会における被害者側発言の大半は、以下の通り、参加した神岡鉱業側にとっては、「耳の痛い」内容であった。
即ち「イタイ、イタイ、イタイ!!軒並みに聞こえる絶叫が、イタイイタイ病の名を生んだ」「姑の看病に尽くして、痛さと怖さを知り尽くした嫁が主婦の座に就くころ、痛みが全身をおおう…立ち上がり這いまわる必死の努力もむなしく、予知された痛みと苦しみと死の道が待っている」「患者を隠し、世にはばかって生き抜く者の田は、カドミウムで汚され、米ができなかった」「こんなことがこの世にあってよいのだろうか」等の苦難の再確認。
大正年代から発生したイ病は放置され、同じ地域の農業被害の補償要求も無視され、戦時体制になると闘いの継続が困難になり、農業被害への補償は、戦後の1949年であること。
「風土病」「奇病」「業病」とされたイ病は、原因不明で治療法もないまま戦後も長期にわたり放置され、被害者と家族は更に長期間、痛みと絶望の中に苦しみぬき、原因が鉱毒と判明しても、イ病の運動は工場誘致優先の富山県知事から白眼視され、ようやく1966年11月に「戸籍をかけた闘い」の悲壮な決意でイ病対策協議会が結成されたが、補償要求のために神岡鉱山に赴いた被害住民に対して警察署の身元調査が行われ、ようやく交渉となっても体よく追い返される一方、企業側は「関係国会議員百名を擁する三井金属に対して、政府が不利な結論を出すはずがない」と嘯くなど、警察や国会を目下に扱う大企業の悪辣さの中で、裁判以外に術がなくなるが、地元には引き受ける弁護士がいなかった等。
1968年1月に全国から参集した青年弁護士に対して、@大企業相手の公害裁判で勝った先例があるのか、A裁判には、農民に負担できない金がかかるのではないか、B裁判は長期化し、患者は皆死んでしまうのではないか。の難質問が飛び出し、そのどれも、「富国強兵」の国策による加害企業擁護の下で、被害住民の闘いを抑えこんで来た現実の力であったために弁護団は立往生したが、深刻な被害と企業の横暴に「黙っていられない」怒りと、正義感に燃えて結集した青年弁護士の情熱への期待から、提訴を決断し、「そのとき歴史が動いた」の闘いが始まったこと。
「痛い」としか言えない患者と、この「言葉にならない患者の苦しみ」をまず「我が物」としようと確認した青年弁護士の決意は、患者や家族と一体になり切ることであり、この立場の貫徹が、その後の諸困難を克服したこと。
「通いの弁護団」の弱点が露呈し、訴訟の継続すら困難となった苦境の克服のための近藤弁護士の富山移住と事務所設立が、県民に対する支援の訴えや、自治体との連携・マスコミとの友好関係確立と情報収集等、運動を飛躍的に前進させる契機となったこと。
県民的支援が強まる中で、被害者や家族も勇気づき、痛い体を引きずって、街頭に立ち、ビラ配布等支援訴えの活動に積極的に参加した。圧迫骨折で背が30センチも縮んだ患者の姿を目にした県民は公害の恐ろしさを実感し、公害問題解決を自分自身の問題と自覚し、イ病裁判支援の全県民的世論が一層強まったこと。
公害裁判敗北は、加害企業の「無限の科学論争」の戦術が、「因果関係論」未確立状況の下で、住民の経済的困窮と結束が乱された点にあったが、この「敗北の原理」克服のため青法協第一回公害研究集会を富山で開催し(「青法協人権集会」「公害弁連結成」の端緒)、「疫学は科学」「鑑定を採用させない」についての意思統一がされ、これに基づき、各地の公害裁判の論戦が展開された。
イ病弁護団も、法廷等でこの議論を進展させる中で、裁判官の「疫学」についての認識が強まり、加害企業側の「無限の科学論争」「不可知論」の付け入る余地を阻止し、「鑑定却下決定」を勝ち取り、勝利を確実にした。これに呼応して、県内の世論が高まり、婦中町の自民党町会議員は、富山県内の全自治体に「裁判への支援要請」行動を実行し、県と県境の小さな一村を除いて、県内全自治体が「イ病裁判勝利を求める決議」を採択する等、富山県内にイ病裁判勝利大歓迎の機運が盛り上がったこと。
それまでは、せっかく勝訴判決を獲得しても加害企業の控訴と仮執行宣言に対する執行停止(認容額全額の保証金を積めば100%実現)により、裁判長期化により被害者の結束を乱す加害企業の戦術は有効であったが、この「不可能を可能にする」ための判決当日電光石火の神岡鉱山差押と、高裁への世論をバックにした行動により執行停止を阻止し、判決日当夜認容額全額を持参させたこと。
控訴審でも三井金属は、無限の科学論争に引きずり込むための膨大な証拠申請をしたが、とりあえず採用された武内重五郎証人(金沢大学教授)を、松波弁護士が、学者を上回る学識による反対尋問で見事に論破し、三井金属の控訴に対する全国的な批判の世論もあり、わずか1年という異例の速さで結審したこと。
勝訴判決を梃子に「公害根絶の全面解決」を求め、控訴審判決翌日三井金属本社交渉で、用意周到に準備した要求に基づき、[@]全患者に対する補償、[A]カドミ汚染田復元の誓約、[B]公害防止協定による立入調査権(専門家の同行を認め、費用は企業負担)を獲得した。その要求獲得の度に、場内は大拍手と大歓声に包まれた。それは「札束ではない」、この勝利が、地域の再生と全国の公害闘争の前進と直結しているとの実感であったこと。
2 ここから被害者側発言は一変する。
以来36年間、被害住民は地域を挙げて、[@]イ病患者の認定とカドミ腎症問題、[A]カドミ汚染田復元事業、[B]神岡鉱山立入調査による「発生源対策」に、裁判の時と同じように、農民的粘り強さでとり組んできたこと。
[@]は、患者発生は激減し、腎臓に影響がある段階で早期に公害病と認定させる「カドミ腎症」問題を政府に要求している。
[A]の汚染田復元事業の工事はあと1年後に完了し、農民が切望した汚染米のない豊かな大地を取り戻すことが出来る。住民主導の地域再生事業の成功である。[B]の立入調査は、常時行われ、特に夏には被害地住民百数十名が参加し、同行科学者の指導と援助により、被害住民自らが専門的・技術的な質問と追及を行い、これらの指摘で公害防止の実が上がり、鉱山側も真摯に対応して、Cdの排出は、自然界値にあと0.01−2ppbに迫り、鉱山の操業からは一切の汚染物を排出しない「無公害鉱山」は時間の問題となり、この到達点は、「被害者の目」「科学者の知恵」「企業の努力」の三拍子そろえば「公害は根絶できる」という確信となり、日本全国各地の公害裁判・運動の勝利の展望が明らかになっていく。
特に、[B]についての大きな変化として、高裁判決後の三井金属社内報に「先手必勝、後手完敗」「これまでは、住民が要求に来れば追い返し、裁判になれは徹底抗戦し、控訴までしたが、その結果、企業イメージが損なわれ、後手完敗で大きなマイナスとなった。これからは、公害対策も含め、先手、先手を打つことが企業の存続と発展のために必要である」と掲載された。
立入調査の開始当時は、三井金属側に「住民側から法外な要求を押し付けられやしないか」という警戒心があってか、激しい対立場面もあったが、立入調査が重ねられる中で、被害住民側の要求が「公害なし」を目指す節度のある要求であることが理解され、同行する専門家の指摘と提案により、汚染物排出の減少が目に見えて実現する中で、鉱山側もこれを誠実に受け入れ、上記の成果となるにつけ、お互いの信頼関係が確立したこと。
3 渋江神岡鉱業社長は、住民立入調査とともに進めてきた公害防止の施策について、図解入りで懇切丁寧に説明し、「公害防止は会社の基本方針である」「対策の結果、成果が上がると本当にうれしい」「今は、人に言われたからやるのではなく、自分達の喜びとして、全力を挙げている」「褒めてもらうと嬉しいし、更にやる気が起きる」「今、操業によるカドミウム排出はゼロに近づいているが、我々がやってきたことは、国内のどの企業でも実現できること」等の発言をし、参加者に感銘を与えた。
4 今地球温暖化阻止問題が、全世界的な課題となり、成果をあげていない日本において、温暖化ガス排出の80%を占める大企業・自動車の対応が緊急に求められている状況の下で、神岡鉱山における経験は、重要な教訓である。海を越えて日本の樹木や魚類に異変をもたらしている中国の恐るべき公害は、日本独自の公害環境問題であり、その解決なしに、国民の命と健康か守れないことの認識の国民的共有が必要であるが、イ病運動の到達点と、これと連動している日本国内の公害反対運動の成果と教訓を中国に伝達し、中国の公害根絶に寄与することは、我々の責務であると思う。