瀬戸内の環境問題について
瀬戸内の環境を守る連絡会事務局長
弁護士 小沢秀造
1 私は、1974年東播中央法律事務所に入所した。西村忠行弁護士が地域の要請に応えて1年前一人で兵庫県明石市に設立した事務所である。環境問題に力を入れたいとのお考えで私も共感した。法律事務所として裁判だけでなく、住民運動に力を注ぐというスタイルであった。私が入所してまもなく、西村先生を中心にして、瀬戸内を守る明石市民の会を設立した。そして、当時倉敷市水島に事務局があった瀬戸内の環境を守る連絡会の事務局が明石市に移動して現在に至っている。西村先生が60才を前にして亡くなられたことは残念でならない。
環境週間の被害者総行動には連絡会として毎年参加している。日比谷公会堂での集会では、被害者団体の一つとして紹介され、連絡会の代表としてひな壇に立っている。弁護団として参加されている弁護士は、どう思っているか若干恥ずかしい思いをしている。瀬戸内海が破壊されており、被害者であるのは間違いないと納得させている。この報告は、弁護士活動の報告はあまりないことをお断りしたい。
2 瀬戸内法成立前後
私は、愛媛県の今治市で生まれ、高校卒業までそこで生活してきた。夏に列車で帰省するたびに、川之江(当時)にさしかかると製紙工場のなんともいえない臭いが列車の窓の隙間から漂ってきていた。赤潮の被害も大きく報道されていた。1970年頃の瀬戸内沿岸の状況であるが、埋め立てによる工場誘致など、瀬戸内沿岸で大規模な開発が非常に増えていた。そして、赤潮被害、大気汚染などにより漁民、住民が立ち上がった。日弁連でも非常に大きな調査団を組んで、1971年1月には環境庁が発足した。同年7月には第1回瀬戸内海環境保全知事・市長会議が開催されている。72年7月中旬から8月中旬には播磨灘を中心に1400万尾の養殖ハマチへい死があり、71億円の漁業被害があった(数字は瀬戸内海の環境保全 瀬戸内海環境保全協会による)。1973年4回に分けて調査をしている。
1973年10月与野党全員一致で瀬戸内臨時措置法が成立した。日本での閉鎖性水域で初めての保全法であり、当初は3年間の時限立法であった。
3 瀬戸内法
閉鎖性水域の中で最初に成立した保全法としては評価できるし、運動する側でも瀬戸内を守るべきであるという確信を持つことの大きな根拠となっている法である。
瀬戸内海が世界に誇る景観地であること、漁業資源の宝庫であるとうたっている。その総論の格調の高さはなかなかのものであると思う。しかし内実は必ずしもともなっていない。不備な点のまず第一は、埋め立てについてのあいまいな規制である。われわれは毎年環境週間において、瀬戸内海保全(閉鎖性水域対策)室と交渉している。保全室に権限が少ないこと、縦割り行政の中で瀬戸内の環境に責任を持つ部局があるとはいえないこと、また13条で、埋立について特別の配慮をすることになっているが、それについての環境省の関与は極めて弱いことなどを痛感している。鞆の浦などの埋立問題などについて、問題にしても規模からいってわれわれの権限外という答えである。
4 瀬戸内法成立後の運動
法成立後もさまざまな運動があった。ここでいくつかの運動を紹介したい。
1982年12月甲子園浜の訴訟は私も弁護団の一員であったが、浜を行政と埋立面積を減らすという妥協をしながらも守り、国設鳥獣保護区の指定を勝ち取り現在に至っている。今後さらに整備されることが望まれる。
入浜権の闘いは、多くの市民、学者、芸術家などを結集した。私も1974年弁護士になってから、法案作りなどに参加してきた。
矢野真之弁護士を中心にした弁護士が遂行した織田が浜訴訟は勝訴には至らなかったが、瀬戸内法を活用した高い内容の判決を獲得したと評価している。1994年6月高松高裁判決は、埋立は条件によっては瀬戸内法に違反すると明記したものであった。
豊島の闘いは、大規模な産業廃棄物の放置について行政の責任で撤去させるという全国的運動を公害調停という手法を活用し、成功させた画期的なものである。豊島での瀬戸環連の住民集会の際、島の過疎が今の課題と言われたことが印象に残る。
福山市の鞆の浦は、埋立問題が起こってから初めて訪問したが、古い歴史がそのまま残っており、正直まだ瀬戸内海でこのようなところがあるかと感動した。
鞆の浦はわれわれに自然環境だけでなく、歴史的景観の大切さを再認識させたものであり、最近の裁判において、付近住民の景観についての権利性を認めたことは画期的である。今、本裁判がホットに展開しており、何とか埋立阻止に成功してほしいと連絡会でも、署名活動を行い、応援のつもりで瀬戸環連の総会を鞆の浦で開くなどしている。
水島財団を中心として、環境省ともども海底ゴミの対策について、住民、漁民、行政(縦割りの弊害を無くして)協力しあえる関係を築きつつある。連絡会とも運動で連携している。公害裁判を遂行してきた被害者団体が作った財団であり、環境問題は行政と対立だけでは解決しないということから、行政とどう係わるか注目されている。
5 今後の課題
瀬戸環連では、2002年ハービーシャピロ教授の提案をもとにして、サンフランシスコ湾の調査に行ったが、かの地では、海面面積は増えて市民の海岸へのアクセスも改善されてきている。大都市が多く存在する湾である。そこでできてなぜ大阪湾、瀬戸内海でできないのか考えてみる必要があろう。サンフランシスコでは、住民運動と科学者の連携が法を作り、保護が成功したと実感した。
閉鎖性水域での連携が可能な時代になりつつある。兵庫県に事務局がある閉鎖性水域の保全のためのエメックスの協力もあり、東京湾、伊勢湾などとの連携の必要性が自覚されてきており、連携を深めるという課題がある。
ラムサール条約が湿地の価値についての認識を深めた。埋立による湿地(白砂青松の浜を含む)の破壊は禁止されるという意味をさらに考える必要がある。
住民運動は当初、行政、企業と対決する中で環境を守ってきた。先輩達の努力に敬意を払うべきである。その対決の中から、藤前、水島など多くの例では、行政と協力しながらかつ、信頼関係を維持し、かつ言うべきことは言うという関係になってきていることに注目すべきであると考えている。対決と協力が求められている時代であろう。