【若手弁護士奮戦記】
ノーモア・ミナマタ近畿訴訟弁護団
弁護士 西念京祐
1 ノーモア・ミナマタ近畿訴訟弁護団は、熊本弁護団からの熱烈な要請を受けて結成され、平成21年2月27日、主に近畿地方に在住する水俣病未認定患者ら12名を原告として大阪地裁に提訴した弁護団である。
弁護団員の多くが、嘗て西淀川公害訴訟を闘いぬいた経験豊富な弁護士であり、なおかつ極めてフットワーク軽く、活発な弁護団活動に取り組んでいる。
しかしながら、そういう意味では、若干、構成員の平均年齢が高めであり、当初この「若手弁護士奮戦記」を書いてくれると期待された61期の元気な新人女性が事務所移籍のため今回は書けないということになると、忽ち、大して若手でもない56期の僕のところに担当が廻ってきた次第である。もちろん、僕自身は、このような構成で取り組めていることに密かな喜びを感じている。
2 ミナマタに関わるきっかけ
僕が、それまで教科書の中に出てくる歴史の一部としか認識していなかった「水俣病」が現在進行形の問題なのだということに気付いて驚いたのは平成6年のこと。だから、あれからだけでも、既に15年が経過したことになる。当時、京都大学には水俣病京都訴訟を支援するサークルがあって(「みんなまった」という名称…)そのサークルの活動をしている先輩(現在は一緒に近畿弁護団で活動しています)から、夏の水俣現地調査に「お魚が美味しいよ」と誘ってもらった。結局、その年は都合がつかず、翌年(平成7年)の夏に初めて現調に参加。資料作成等のお手伝いをしながら、多くの患者さん達とお話しができ、胎児性の患者さんに1日付き添って食事や散髪に行ったりもした。自社さ政権下で、所謂「政治解決」の直前の時期。焼酎を飲みながら夜通し議論する支援者や弁護士の姿が、刺激的だった。
京都に帰ってからも、京都訴訟原告の方々との交流が続き、和解の頃には「生きているうちに救済を」という高齢化した患者さん達の切実な声を聞いていたし、実際、あれから暫くの間に、熱心に活動されていた原告さんが何人も亡くなられる悲しみを味わった。
唯一残っていた水俣病関西訴訟が大阪高裁に続いて最高裁でも勝訴したニュースを聞いたときは「凄い!」と喜んだ。
3 無視された司法
最高裁判決から早5年。司法が水俣病の判断基準を明快に示したにもかかわらず、行政認定基準が改められることはなく、今も尚、不当に狭い認定基準の壁のため、水俣病であることを認められず救済が受けられない患者が数多く残されている。
現在、対象地域に一定期間居住していた者等を対象に、医療費を無料化する保健手帳(青い手帳)制度が導入されているが、この制度は、水俣病の認定申請や水俣病に関する損害賠償請求訴訟をしないことを条件としており、救済を求める患者の裁判を受ける権利を著しく制限している。
最高裁の判断が無視され、患者の裁判を受ける権利が制限されている。規制緩和が推し進められ、行過ぎがあれば事後規制で調整するなどと嘯いている時代において、行政がこれほどまでに司法の役割を否定している態度には、憤りを禁じ得ない。
最高裁判決からですら既に5年が経過しようとしている。高齢化が進み、時間のない患者らの救済を放置し続け、治療費補助のみで裁判の機会すら奪おうとする国や熊本県の態度は極めて悪質である。
4 個別患者の聴取りを通じて
近畿訴訟では、現在、原告患者さん一人一人の生活歴や、神経障害による生活上の苦労等について、訴訟での主張立証に備えた聴取り作業や検診に取り組んでいる。
僕も、先日、京都府内の老人施設に原告さんを訪ねた。水俣で育ったが、地元では仕事がみつからず、24歳の頃に京都に出てきた後、給食会社で働き続け二人の子供を育てた。その間、手足の痺れを我慢し続けていたという。今では、手足が不自由で、食事も一人ではままならない。水俣病と認めてもらえないことが悔しい、と涙を交えて語られた長期に渡る苦しみに、掛ける言葉がみつからなかった。
他の原告らの陳述書からも、水俣から遠く離れた地で、あるいは、年齢的に意外な40代等で、隠れた水俣病被害に苦しんできた患者達の姿が浮き上がってくる。
過日、水俣病未認定患者救済法案が成立した。しかし、終わらせること自体を目的とするような拙速な処理で、このような永年に渡る被害を救いきれないことは明らかである。
改めて、被害に寄り添う地道な活動に取り組みたい。公害の原点が、今なお、このような状態であることの持つ意味を噛み締めつつ。
そして、もちろん、もっと若手の弁護団員を募集しています。