1 住友石綿じん肺第二次訴訟判決
横浜地裁横須賀支部は、2006年(平成18年)10月30日、住友重機械工業株式会社に対し、元従業員9名と死亡した元従業員3名の遺族に対して約2億1000万円の損害賠償を認める判決を言い渡した。造船所のじん肺、中皮腫をめぐる集団訴訟でのはじめての司法判断だった。
この事件は、11名の退職者(提訴後2名死亡)と、胸膜中皮腫により死亡した退職者(1名)の遺族が原告となり、2003年(平成15年)7月8日提訴されたもの。
会社は、じん肺法に基づきじん肺診査医の診断・審査によって決定される管理区分は症状を反映しないとして原告らの症状を争い、粉じん暴露を争った。そして、排気装置や防塵マスクの使用によって安全配慮義務を尽くしていると主張したが、判決は、これらの会社の主張をことごとく排斥した。会社は控訴せず、判決は確定したが、今回の判決に至るまでには長い道のりがある。
2 横須賀におけるアスベスト問題
1982年(昭和57年)5月8日、読売新聞に横須賀共済病院の三浦医師を中心とした研究チームの研究結果が報道された。米海軍基地・造船関係で石綿肺がんが多発しているというものだった。 他方1986年の空母ミッドウェーの大規模補修工事の中で、アスベストの不法投棄がなされていることが、神奈川労災職業病センター所長の田尻宗昭所長らの活躍で明らかになった。田尻さんは四日市での海上保安庁時代に公害事件で初めて刑事責任を追及した人であり、一刻も早くアスベスト対策がとられるべきだと考えていた。 アメリカでは既に1981年、製造物責任法によりアスベストの危険性を知りながら製造を続けたとして高額の懲罰的慰謝料が認められ、ミッドウェーの改修工事自体は厳重な管理下で行われていた。しかし、日本では大量のアスベストの輸入が続けられるといった状態だったのである。
このような中で、住友重機に対する一次訴訟が準備され、田尻さんの強い危機感のもと、アスベストによる肺がんや悪性中皮腫の危険性を正面から問う裁判として位置づけられた。
3 第一次訴訟
住友重機の退職者8名は、1988(昭和63)年7月14日、同社に対して、横須賀支部に損害賠償の訴え(第一次訴訟)を提起した。裁判は長期にわたったが、会社の不当性は徐々に明らかにされていった。そして、弁護団の一員がつくった劇の上演、横井久美子さんのコンサート、じん肺キャラバンへの参加という中で、支援の輪が広がっていった。その中で、1997年(平成9年)3月30日、裁判上の和解が成立する。さらに、これを受けて同年4月30日、住友重機械工業と全造船浦賀分会の間で、救済制度(じん肺労災補償規定)が合意された。この救済制度は、当時としては画期的なものであった。また、同じく住友重機を被告とする石綿肺がん訴訟(1995年提訴)も一次訴訟の和解成立から約6か月後の1997年10月に、会社がその責任を認め、遺族に弔意を表明して和解解決した。
4 二次訴訟と今後
一次訴訟後、三菱重工長崎造船所でも裁判が提起され、和解がなされた。他方、1998年(平成10年)、米海軍横須賀基地艦船修理廠の元労働者12名と四名の遺族が民事特別法に基づいて国を被告として提訴し、2002年(平成14年)10月7日横須賀支部で勝訴判決がなされた。このような中で、2003年、二次訴訟が起こされることになった。会社は、控訴はしなかったものの、じん肺被害のための救済制度の改定やアスベスト被害救済制度の創設がなされたわけではない。そして、下請労働者の救済は全くの手つかずである。
田尻さんは、公害は工場内の労災が工場の外にでて発生することを強調していた。2005年に社会問題化したクボタ周辺住民のアスベストによる中皮腫問題は、まさに田尻さんが言ってきたことである。アスベスト被害の潜伏期からみて、これから被害は大きくなるだろう。アスベスト被害の防止、救済はますます重要になっていく。