大阪・泉南地域における石綿被害と弁護団の取り組み

弁護士 村松昭夫

1 大阪・泉南地域における石綿被害の実態
(1) 大阪・泉南地域における石綿産業 大阪府の南に位置する泉南地域は、古くから石綿の紡績、紡織などの石綿工業が地場産業として栄え、その歴史は100年にもおよぶといわれている。最盛期には、泉南市と阪南市の主だった石綿工場だけでも60を越え、そのほとんどが中小零細企業で、その下にはさらに200を越える家内工業、内職の職場も存在していたと言われ、「石綿村」と言われるほど石綿工場が集中立地していた地域も存在していた。仕事は、石綿をほぐして綿と混ぜ合わせる「混綿」といわれる工程から、糸によったり、布状に織ったりする工程など様々であり、できあがった製品は大手の石綿製品のメーカーに納入していたようである。石綿を直接扱う手作業も多く、工場内には石綿の粉じんが充満し、1メートル先の人の顔も確認できないほど職場環境は劣悪であった。同時に、工場の外にも窓等から石綿が大量に飛散していた。こうしたことから、泉南地域はこれまでもアスベストによる地域被害が指摘されていた。
(2) 被害実態調査について 去る11月27日、大阪じん肺アスベスト弁護団と大阪民医連、「泉南地域の石綿被害と市民の会」は、泉南市で医療・法律相談会を実施した。そこでもこの地域の石綿被害が想像以上に深刻であることが明らかになった。当日は泉南市と阪南市から99人が相談に訪れ、レントゲン診断を行った83人中、実に6割を越える53人に石綿による何らかの異常が認められた。内訳は、石綿肺あるいはその疑いが40人、胸膜肥厚斑あるいはその疑いが29人、胸膜肥厚あるいはその疑いが23人などである。なお、レントゲン検査を行わなかった人の中にも、肺ガン、中皮腫、じん肺などに罹患している人が含まれている。また、被害者の内訳も、労働者72人、労働者の家族4人、出入り業者3人、工場近くに居住あるいは労働していた人16人など、工場の従業員、その家族、周辺住民、零細事業主とその家族など、まさに地域ぐるみの被害の様相を呈していることも明らかとなった。
(3) 特徴的な個別被害
 Aさん(68歳)の夫は、昭和42年から約26年間石綿工場で働いていたが、肺がんとなり(死亡の約半年前)、平成5年11月に59歳で死亡した。
 Aさん自身も約10年間同じ石綿工場で働いたことがあり、今回の検診で石綿によると思われる肺の異常が認められた。また、Aさんらの家族は、工場の敷地内にある長屋の社宅で1年間ほど暮らし、その後も近くにできた別の社宅に住んでいたとのことである。当時は、石綿まみれの仕事着で、社宅に帰って昼ごはんを食べていたこともあり、仕事と生活が一体であった。仕事内容は、夫は混綿(石綿と他の原料を混ぜ合わせること)の作業を行っていたが、重労働でかつ石綿まみれになる工程であった。Aさんは、主にリング(石綿含有の繊維を撚って単糸に加工し、芯に巻きつけること)の作業をしていたが、糸が切れると石綿が飛び散って服が真っ白になったとのことであり、換気扇が2個設置されていたが、床は石綿で真っ白であった。Aさんは、亡き夫と自分の疾患について、国が石綿の使用を認めていた以上、国にきちんと補償して欲しいとの思いを持っている。
 また、Bさんは昭和26年生まれの現在55歳の男性で、中学卒業直後の昭和42年から16年間親族の経営する石綿工場で働いた。工場廃業後、タクシー運転手として就職したが、現在は肺ガンで入院中である。Bさんの親族の経営する工場と自宅は同じ敷地内にあり、家族総出で他の従業員と同じ勤務時間・賃金で働いていた。主な作業内容は混綿・カード・リング・インターと呼ばれるもので、石綿を砕いて綿に混ぜて螺旋状の糸を作っていた。Bさんは石綿の固まりを手やスコップで砕いて、混綿機という機械に入れて混ぜ合わせる混綿という作業と、混綿を板の上に乗せて平らにしていくカードという作業に、主に従事していた。混綿作業はもっとも石綿の粉塵のひどい作業で、窓を開け、大きな集塵機を5台使用しても、工場内は石綿の粉末が舞い散り白く煙っていた。床に落ちた石綿や集塵機に付着した石綿も拾い集めて再利用し、集める際にほうきで床を掃くと、石綿の粉がもうもうと立ち上り、目の前が見えなくなるほどであった。当時、近所にも12軒ほどの石綿工場があり、Bさんの工場の元従業員のうち、石綿肺で亡くなった人が2人ほどいるとのことである。平成11年に石綿肺、平成14年には続発性気管支炎と診断され、平成17年肺ガンとの診断で、余命は1年との宣告を受け、ひどい衝撃を受けた。現在は入院中で、働くことは出来ず、多額の治療費もかかるし、自分の死後、残された家族の生活が心配で、ほんとうに心残りでならないという。
 さらに、Cさんは大正2年生まれで泉南市で農業を営んでいたが、平成13年に肺の病気で死亡した。自宅と農地のすぐ隣には、昭和初期から昭和52年まで、泉南地域で最も大きな部類に属する石綿工場があり、窓から石綿の繊維をまき散らしていた。Cさんは戦後間もなく、その石綿工場のそばに農地を借り、そこに居を構えて農業で生計を立てるようになった。その石綿工場は、昭和20〜40年代にかけて業績を伸ばし、昭和40年代には、工場の壁にずらりと並んだ窓が開け放たれ、そこから石綿の白い繊維がまき散らされ、その下の側溝には、石綿の繊維の埃がたまっていた。Cさんはその窓のすぐ下の農地で、長年農業を営み、昭和52年にその石綿工場が石綿製品の製造をやめるまで、毎日のように石綿を吸い続けたことになった。石綿工場の敷地内には、社宅や女工の寄宿舎もあり、労働者の仕事と生活の場となっており、肺の病気になる労働者が少なからずいて、病気を悲観して近くの池に身を投げた人もいたとのことである。Cさんが最初に体の異変を訴えたのは、平成元年前後であった。血痰が出てあわてて病院にかかったところ、医師から「石綿工場で働いたことあるんか?石綿が肺に突き刺さってるで」と言われた。それから15年以上がたった今年1月、Cさんは肺炎を起こして入院し、苦しい息の中で、「石綿工場にこの苦しみを訴えたい」と言いながら、亡くなっていった。また、Cさんと同様に石綿工場のそばに農地をもっていた人も胸膜を患っていたとのことであり、石綿工場から数十メートルの所には古くから幼稚園があったことから、子どもへの影響も懸念されている。

2 大阪じん肺アスベスト弁護団の活動
 大阪じん肺アスベスト弁護団は、従来から活動していた大阪じん肺弁護団を母体にして、今年夏に、公害環境事件に取り組んできた弁護士や活動力溢れる10名を越える58期の新人弁護士の参加を得て結成され、弁護団員は30名を越えている。現在、泉南地域の被害の掘り起こし、電話相談、個別労災事件、シンポジウム、学習会、国の責任追及の検討、行政への要請活動など多彩な取り組みを行っている。12月12日には、大阪民医連と「市民の会」とともに記者会見を行い、泉南地域での被害実態調査の結果とアスベスト新法に対する意見書を発表し、大阪府などへの要請行動も行った。アスベスト新法に対する弁護団の意見書に関しては添付したものを参照されたい。
 今後は、泉南地域を中心に一層の被害の掘り起こしを行うと共に、国に対する国賠請求も視野に入れて、真に隙間のない被害の全面的な救済に向けた取り組みを行っていくことになっている。