2、2005年5月16日(月)
「諫早高裁決定が出る」
午前10時30分、福岡高裁前は、当事者、弁護士、支援者、報道の人だかり。本日午前11時、諫早の高裁決定が出る。
熊本から電車で駆けつけた時には、100名以上の方が集結しておられた。
私は、勝訴時の旗出しの担当。初めての経験にやや戸惑ったが、明くる日の朝刊を想像しながら裁判所玄関で用意をしていた。
しかし、馬奈木団長は無言で玄関を出た。私も、閉じたままの旗を持って戻る。敗訴であった。私におおかた動揺はない。反省点は、敗訴の「旗」が用意されていなかったこと。
この日、敗訴決定後、「こういう時こそ、弁護士が力強く堂々と当事者を引っ張るべきだ」と直感的に感じた。
敗訴決定であっても、当然に、熊本県庁と熊本県漁連への要請行動に移った。
帰りのバス車内で要請文を即席起案し、事務所へメール転送して書面を手配して、当事者とマスコミへも直接連絡して、怒りを込めて、県庁と漁連に乗り込む。
漁民の皆様は、皆、静かに怒っている。これまで敗訴の経験のない漁民だが、驚くほど頼もしく見えた。この日の行動が現在の大量追加提訴につながったと感ずる。
熊本の弁護士だから熊本の漁民と共に行動する。当たり前だが、それなしには前進はあり得ないだろう。
3、2005年6月9日(木)
「公害被害者総行動に参加」
私は司法試験の口述試験を受験した2002年10月末、東京都庁前で行われた東京大気汚染訴訟の判決日行動に同行し、トヨタ自動車本社前での交渉及びシュプレヒコールに参加した記憶がある。
そのとき、全国から公害被害者の方々が大勢集まられるのを見て、自らの無知と行動の重要性を感じたことが忘れられない。
弁護士1年目の6月10日、東京にて、本年度の総行動に参加した。環境省で皆さんと合流。私は、水俣病の交渉担当となった。
といっても、若輩の私が交渉できるはずもない。交渉団の一番後列で、黙って交渉の様子を見守った。時は、関西訴訟最高裁判決を受けて、新たな認定申請患者が急増している最中である。交渉においては、当然、これに対する行政の姿勢・方針が焦点となった。
これに先立つ水俣での小池環境大臣の言葉に、誠意など全く感じられなかったが、役人の言葉も全く同様であった。
「認定審査会は、これから頑張る予定である」「しかし、この場で、明確な発言はできない」。これ以上は、何もなかった。
行政を動かす責任は、専ら我々住民の側にあることを肌で感じた一瞬であった。
終了後は、日比谷公会堂にて決起集会が開かれた。時代が流れようとも、この動きを絶やしてはならないと感じた。
4、2005年7月10日(日)
「水俣にて」
私は、中学3年、15歳まで熊本県水俣市で過ごした。
九州新幹線「つばめ」が一部開通して、熊本と水俣の移動時間は50分ほどになった。
私はこの日、故郷である水俣で、不知火患者会の世話人の方々との勉強会に参加した。
私の役割は、2004年10月に最高裁で下された水俣病関西訴訟判決の責任論の解説である。
世話人の方々は、かつての水俣病裁判の時に中心的な役割を果たされた原告の方のご子息であったりするが、私も含めて自らが当事者的に関わるのは、今回が初めてである。
現在、認定申請患者数は2000名を超える。水俣病を法的に解決することは、何も公害弁連の弁護士だけの役割ではなく熊本の弁護士全員の役割のはずであるが、現実は厳しくもある。
しかし、私はこれから、責任を持ってこの事件の、本当の最終解決に取り組みたい。